汝ら火の中にありてエホバをあがめよ

短い言葉ではあるが「ありて」を注意しなさい。わたしたちは試練の中にも神をあがむべきである。試みは誠に苦痛であり、よし神が聖徒として火の中にありながらも、なお火の熱きを感ずることがないようにされたとしても、火は通例をそこなうものである。けれども、そこでこのことをわたしたちに来たらせたもうた恵みと愛とに対してわたしたちの完全なフェイスによって彼をあがむべきである。

しかしそればかりではなく、このことから、この火のような苦難のために、神の栄光となるべき更に大なるものが、来ることを信ずるべきである。

わたしたちは更に大なるフェイスによってのみ、火を通ることができる。小さいフェイスは失敗する。わたしたちは炉の中にも勝利を得ねばならない。

人間は苦悩の時に示し得る十分な宗教を持っている。火の中に投げ込まれた人たちは、そのなわ目が火に焼けただけでそのまま火から出てきた。

神はいかにしばしば苦難の炉の中で縄目を打ち切られたことであろう。その肉体は害を受けず、その皮膚は火ぶくれにはならなかった。彼らの毛髪は焼け落ちず、その衣は焼け焦げず、火の匂いすらもつかなかった。これこそキリスト者が火のような試みから出てくる道である。縄目を解かれ、炎にも触れずに。

「十字架によりて凱旋したまえり」

これこそ真の勝利、疾病の中にあっても打ち勝つ勝利である。死につつもそれをれに打ち勝つ勝利、逆境にあってもこれに打ち勝つ勝利である。争いの中にあってわたしたちを勝利者とする力である。わたしたちは自ら通ってきた道を見下ろし、この天の側で勝ち歌をうたい得る高みに到達することができる。わたしたちは自ら貧しくても、他人にわたしたちを富める者と思わせ、わたしたちの貧しさによって多くの人を富ますことができる。

わたしたちの勝利は十字架の中にある。キリストの勝利は謙遜の中にあった。わたしたちの勝利もまた、他人にはへりくだりと見えるとところに表れるのである。

多くの苦難を負わせられながらも、なお銀鈴をひびかせるような心を持つ男子あるいは女子の姿には、何となく人を引きつけるものがあるではないか。激しく試みられながらも、勝利者以上の勝利者である人の姿には他人を魅了するものがあるではないか。肉体は損なわれながらも、たゆまない忍耐の輝きを保持する巡礼者を見るのは心強いことではなかろうか。すべてこれらのことは神の恵みを着ることについて何たる善い証明をわたしたちに提供することであろう。

荒野の泉

Posted by AKATAS ODIKIAS