正しい人はフェイスによりて生きる

見えることと感情とはしばしばフェイスに代用される。快い感情と深い満足感とはキリスト者生活の一部ではあるが、すべてではない。試みと戦いと試練とはその道に横たわるけれどもそれは不幸とは数えられない。これはむしろわたしたちに必要な訓練の一部である。

これらのさまざまの経験において、わたしたちの感じはいかにあれ、わたしたちの心に宿りたもうキリストを当てにして、主の御前に従順に歩むべきである。多くの人がここで失敗する。彼らはフェイスによらず、感情によって歩むからである。

ある一人の女性は神ご自身を彼女からかくしたもうたように見えたことを語った。神の憐れみは全く彼女から去ったかに見えた。六週間彼女の捨てられた有様が続いたが、やがての天の愛する者がつぎのように言われるのを感じた。
『カザリンよ、お前は五感の世界で外からわたしを探した。だがその間わたしは内でお前を待っていた。お前の霊の内なる部屋でわたしと会いなさい。わたしはそこにいるのだ』と。

神の御臨在の事実とそれによる感情とを区別しなさい。魂が淋しくなって捨てられたように感ずるとき、わたしたちのフェイスが『わたしはあなたを見ることができません、けれどもあなたはたしかにまた恵み深くここにいましたもう、それはちょうどわたしがここにいるように』と告白することができたならばまことに幸である。そして繰り返し、次のように言いなさい。『あなたはここにおいでになる。たとえ茨が火に燃えるように見えなくともそれは燃えています。わたしはわたしの足から靴を脱ぎます。わたしの立っている所はきよい所ですから』と。

あなたの感情と経験以上に、神に言葉と力を信じなさい。あなたの岩はキリストです。満ちたり、かわいたりするのはキリストではなくあなたの海です。

キリストの完成された行いと、正しさの限りない偉大さにあなたの目を堅く定めなさい。イエスを見上げて信じなさい。否、更にあなたが彼を見上げるとともに、あなたの帆を上げ生命の海を男らしく進みなさい。不信の港に止まってはならない。また不活発な休息の中にいる自分の蔭に眠ってはならない。またなすこともなく港につながれている船のように、縦揺れしたり動揺したりするところに、気分や感情をまかせてはならない。

生活は浅瀬にフェイスの竜骨を引きずったり、感情に溺れていることではない。けなげに風と戦うことを恐れて、柔らかい泥の上に希望の怒りを引きずってはならない。海の怒りを支配したもうキリストに信頼しつつ、暴風に帆を向けてそこを去りなさい。きれいな鳥が安全であるためには飛びかけている必要がある。その出没が地上に近ければ、鳥をとる人の網やわなに陥りやすい。もしわたしたちが自分の感情と感激の低地にまごついているならば、わたしたちは疑いと意気消沈、誘惑とアンビリーブの網に引きかかる危険が多い。翼ある者の目の前に網を張ることは徒らである。

『神によりて望みをいだけ』
わたしはフェイスの確信を保持し得ない時でも、密着するフェイスによって生きる。

荒野の泉

Posted by AKATAS ODIKIAS